読書記録<花腐し>

2000年芥川賞受賞作品.表題作のほか,『ひたひたと』も収録.

花腐し (講談社文庫)

花腐し (講談社文庫)

『ひたひたと』では,中年男の榎田が雑誌取材のために,かつて遊郭だった町・洲崎の写真を取りに来る.榎田が歩みを進めるにつれて,彼の子ども時代から,青年,そして中年へと至るまでの人生が幻想的に展開されていく.

一方『花腐し』は,にわか地上げ屋の栩谷が古アパートの怪しげな住人・伊関を追い出そうとする.伊関と酒を飲みながら話をすると,裏切った友人,死んだ同棲相手のことが思い出されてくる.
この作品は,冒頭から陰鬱で暗い雰囲気が漂っている.返済不能な借金を抱えた中年の男が主人公になっていることで,物語の暗さは増している.それなのに,読み始めると,話のおもしろさに一気に引き込まれて,最後まで一息にたどり着く.冒頭に感じていた暗さは解消されることなく最後までまとわりつくけれども,現実のどうしようもなさと,やるせない過去の記憶にまみれながら,どうにか生きていけるかもしれないと,かすかに灯った生の炎が栩谷を照らす.

実に巧みで,味わい深い.


個人的な話になるが,著者の松浦寿輝先生は,私が大学1年のときの,必修フランス語の担当教員であった.当時の私は,松浦先生のことを全く知らなかった.数ヶ月経って,ようやく先生が作家であることを知った.
ひとつ,印象深いエピソードがある.

たしか,晩秋のころだったと思う.松浦先生は,多忙なのか,講義には遅刻していらっしゃることが多かったのだけれど,その日は特に遅かった.大学の規定では,講義開始時刻を20分過ぎても教員が現れない場合,自動的に休講とみなされるのだが,まさにぎりぎりの時間に先生は教室に入ってきた.
開口一番,とある文学賞の選考中のため,遅れてしまったのだと仰った.続けて,最近はおもしろい小説がない.だから,賞の選考も大変だ,どうだろう,君たちも何か書いてみませんか,と,私たち理系の学生に向かって宣った.
文系の学生であったなら,先生の言葉を受けて何らかの作品を執筆していたのかもしれない.しかし,私は純然たる理系の学生であった.当時は,物理学でもやろうと思っていたころである.

それが数年経って,今となっては文芸に多大な関心を寄せるようになったのだから,人生はよく分からない.紆余曲折を肌で感じる.