読書記録<Jの神話>

Jの神話 (文春文庫)

Jの神話 (文春文庫)

講談社第4回メフィスト賞受賞作.
率直な感想を,直感的に言うならば,

シビレタ!

となるであろう.

著者の乾くるみ氏の作品に『イニシエーション・ラブ』がある.数年前,友人に薦められて読んだが,衝撃的なものだった.『Jの神話』は乾氏のデビュー作であるけれども,帯にあるように驚愕の作品である.

舞台は,全寮制の名門女子高である.塔から投身した1年生,胎児なき流産により失血死した生徒会長,事件を調査し始める女探偵「黒猫」,そして,事件の背後に暗躍する「ジャック」という謎の存在.始まりは,本格ミステリィのようにも思われるが,クライマックスに向かって予想もしない方向へと進んでいく.真相が明らかになる後半部では,もはや手の震えが止まらない.

生殖医学,発生学,遺伝学等々の医学知識を詰め込み,物語の緩急を適切に押さえ,読者を仄暗い世界へと導いていく.その筆力には驚くほかない.基礎医学を専門とする立場から云えば,医学的に成立しないような描写もあるにはあるのだが,それを指摘して作品の瑕瑾とするのは,あまりにも無粋であり,フィクションの世界を台無しにする.だから,何も云わない.

胎児なき流産や望まぬ妊娠というモチーフについて,京極夏彦姑獲鳥の夏』を想起した.京極先生は,第0回メフィスト賞受賞者(講談社メフィスト賞は,京極夏彦先生が講談社編集部へ『姑獲鳥の夏』の原稿を持ち込んだことが契機になって創設されたらしい)である.『姑獲鳥の夏』は,20ヶ月もの間妊娠しているという異常な妊婦が事件の始まりであり,医学知識に加えて民俗学の要素が多分に融合された傑作である.また,『Jの神話』の後半部の展開は,瀬名秀明パラサイト・イヴ』のような,生物学的肉感(生々しい,バイオレンスな,しかし官能的な)を感じる.おそらく,この官能性こそが,私に手の震えを生じさせたものの正体であろう.

メフィスト賞作家は,突出した才能を生かした作風の作家が多いと云う.殊に,京極夏彦森博嗣西尾維新の三先生を私は愛読する.それぞれ,独特の作風で私を魅了してくれる.京極先生は複雑だが見事な物語を,森博嗣先生は他に類を見ない理系ミステリィの分野を開拓し,西尾先生は軽妙饒舌な文体のエンターテインメント作品を創りだした.

乾くるみ氏も,間違いなく個性的な作家であろう.読者を衝撃の渦へと導いていく力は神業である.理学部数学科の出身であるらしいが,そのせいか作品の細部までも構成が緻密である.数学という分野は,大変に厳密性を要求するもので,感覚的処理を許さない.この配慮によって,どんな状況でも一般性を失わないように,つまりできる限り法則の適用範囲を広げられるようにする.私は高等数学は得意ではないので,詳しくはないが,大学初年で学ぶ解析学では,その基礎にまず極限を定義する.高校数学ではいささか感覚的な扱いだった極限操作が,ε-δ論法によって厳密に定義される.この定義によって厳密かつ豊かな数学世界が発展していく.もともと,解析学は,17〜19世紀にわたって,ニュートンライプニッツ微分積分の基礎を築き,オイラー,コーシーといった偉大な数学者たちが発展させていった.発展の段階にあっては,数学的に非常に豊かな成果が得られたために,極限の厳密性といったことはあまり深く顧みられなかった.曖昧さを抱える解析学を,コーシーが厳密に整えていった.脱線したが,このような厳密性希求への精神が乾氏の中にも息づいていて,緻密な作品を作り上げる基礎となっているのではないか.それとも,著者の出自に作品の性格・完成度を求めるのは,あまりにも穿った見方だろうか.