読書記録<のばらセックス>

のばらセックス (講談社BOX)

のばらセックス (講談社BOX)

少し長いが,まずは引用から始めようと思う.
「はじめのうちは,何だかたるい話の展開で,タカをくくって読んでいたのであるが,5枚読み10枚読むうちにただならぬ予感がしてきた.そしてあの凄絶なクライマックスまで,息もつがせず読み終えると,文句なしに傑作を発見したという感動に搏たれたのである.しかしそれは不快な傑作であった.何かわれわれにとって,美と秩序への根本的な欲求をあざ笑われ,われわれが「人間性」と呼んでいるところの一種の合意と約束を踏みにじられ,ふだんは外気にさらされぬ臓器の感覚が空気にさらされたような感じにされ,崇高と卑小とが故意にごちゃまぜにされ,「悲劇」が軽蔑され,理性も情念も二つながら無意味にされ,読後この世にたよるべきものが何一つなくなったような気持ちにさせられるものを秘めている不快な傑作であった」(三島由紀夫

これは,三島由紀夫が,深沢七郎の『楢山節考』に対して与えた評価である.私は,本作『のばらセックス』を読了して,類似した感想を持った.もっとも,凄絶なクライマックスというよりは,落ち着くべきところに落ち着いたという感のある終わり方であったが.

本作の世界は,衰退に向かっている.人類は一度大きく減少し,一度持ち直したが,また数を減じている.そして,世界には男性しかいなかった.女性は,2000年前から存在しなくなっていた.そこへ,最初の女性「のばら様」が生まれる.彼女は傍若無人に振るまい,世界に幸福と災禍の種をまき散らした.そんな中,二人目の女性「おちば様」が生まれる.おちばは,母親・のばらがまき散らした種を拾い集め,いくつもの性と対峙する.

のばら様はつぶやく.「わたしは女という病気なのだ」.のばら,おちばは,女に生まれたのだ.

さて,ここでSimone de Beauvoirの言葉を引用せねばなるまい.すなわち,「On ne nâit pas femme: on le devient.」人は女に生まれるのでない,女になるのだ.

しかし,本作の世界ではどうであろうか.男性しかいない世界に,女という怪異として産み落とされるのである.おちばは14歳の少女である.女という極めて希な性のために,非常な困難に直面する.陵辱される.陵辱の限りを尽くされるのである.

性の問題は難しい.人間に限って云えば,基本的には男女の性がある.これは性染色体の組み合わせによって規定される生物学的な性である.一方で,文化によって養われる意識としての性がある.本作の世界では,生物学的には二人の例外を除いて男性しかいない.だが,文化的には多様な性がある.おちばは,そういった性とも関わりを持っていく.

最後は,おちばの出生の秘密に迫ることになる.これについて,また引用をしようと思う.
「万人に逆らってまで「あやまち」に固執する主体,そのような主体は一般にどのように呼ばれているか.異端者と呼ばれるのである.」「愛する人が街角で気分を悪くし,苦しみながら薬をほしがっているという悪夢を見た.……あとになってわたしは,愛する人というのが実は自分のことであるのに気づいた――当然のことなのだ.自分以外の誰のことを夢に見られるというのか.」(Roland Barthes

おちばは,バルトの云うところの,異端者が自分を愛するあまりに作り上げられたものなのである.

結局,世界は,本来あるべき均衡を保つようになる.男女比がほぼ等しくなるのである.そこに至るまでの道のりには,悲劇があった.しかしこの悲劇は,軽蔑されたのだった.それどころか,悲劇は,当事者のおちば自身が淫らに振る舞うことによって彼女自身の快感につながってしまう.

本書には,露骨な性描写がある.逸脱した描写さえある.読者を不快にさせる描写もあるだろう.これはそういう小説である.性からは目を背けられない.この本を閉じたときに,何か不快感を感じられたのなら,この小説は成功している.そして私は不快感を感じたのである.